cucin amica

3月11日。

DSC06296-1.jpg



3月11日。
あの大震災から3年が経った。
政治家の「収束宣言」は、馬鹿馬鹿しいほどほど遠く、
仮設住宅での生活、原発避難生活が長引いているのが現状だ。

かと言って、この3年。
私が何を出来たかと言えば、人を非難できるほどの事は出来ていない。
ただ痛感したのは、命の尊さと人への親切の難しさだ。
縁のあった方が被災し、何か出来たら・・・と、あれやこれやと送った。
最初は喜んでくれていたのだが、ある時から微妙な雰囲気を感じ取り、
未熟者の私は、ほんの少し気持ちを遠のけた。

そして、今でもその方の真意は聞けず仕舞いだが、
もしかしてこれだったのでは・・・と思う出来事をまのあたりにした。
津波ですべてを失った人が「もう。ありがとう。って言いたくなんです」と言った。
「自分は全てを失い、どんなに人に良くしてもらっても、何もお返しが出来ない。
 もちろん相手がお返しなど望んでないことも承知。
 だけど、施されるばかりの人生になってしまった自分が情けないんです。」
私は衝撃を受けてしまい、しばらく言葉が出なかった。

もしかしたら、あの人もそうだったのかもしれないと思ったのだ。
私から届く小包に、また「ありがとう」と言わなくてはいけない。
日々、被災の地で繰り返し口にしなければならない「ありがとう」をまた言わなくてはいけない。
それは、浅はかな私には到底想像も出来ないほど、苦痛な事だったのかも。
日常を失い、今なお非日常を生きる人たちに、
思い上がりの優しさが届くはずがないのだ。


だけど、あの日。
恐ろしい大惨事を目の当たりにし、どんな些細な事でも出来ることをしたい!
人の役に立ちたい!人に優しくしたい!と思った人がどれほどたくさん居ただろうと思う。
そして、その優しさに触れ、救われた人がたくさん居たのも事実のはずだ。
ただ、長引くこの非日常が、穏やかな気持ちをかすれさせてしまったのだと思う。
全ての人に、健やかな日常が戻ったら。こんなささくれた気持ちに誰もならずに済むのに。
そんなの理想でしかない・・・と言われるだろうけど。



この3年で、私は母親になった。
震災当時は気楽な夫婦二人生活。守るものなどまだ知らなかった。
そして今、大切な大切な息子を抱きながら思うのだ。
あの日、家族を失ったたくさんの人々。
どれほどの苦しみだったのか。
大切な人を失った悲しみは一通りではなく、
枝のように幾重にも別れ、受け止める人それぞれの悲しみがあると思う。
それはたった3年で癒されるものではない。


3月11日。
庭の南天の枝に映える青空が美しく、
「どうか全ての人が健やかに暮らせますように」
そう祈らずにはいられなかった。









スポンサーサイト

SEO対策:さいたま市 SEO対策:西区 SEO対策:料理 SEO対策:パン